植木屋商店の歴史

植木屋、白井家は言い伝えによると、400年ほど前、土佐から会津の地に来たという話で、植木屋という屋号は、元禄年間のものと推定される白井家の墓石に「白井遊庭」という名がある事や、我が家の当時の庭の造りが、規模は小さいが御薬園と似た形をしており、 あずまやの名前も御薬園の「仙春亭」と同音の「先春亭」などと名づけられたりしている事から、初代は植木職人、庭師であろうからと伝えられてきました。

創業は元禄七年(1694)、文化二年(1805)などと言われており、定かでありません。江戸時代後期から今のような業態で商いしていた物と思われます。

埋め立てられた鶴ヶ城の外堀のすぐ外、郭外最初の東西に伸びる商人の通り「一之町」に当時より店を構えております。

屋号は当主が代々襲名する「與平(ヨヘイ)」の「ヨ」をとり「やまよ」
遊庭、七兵衛、与左衛門・・・・・等と続き、確認できる限りだと12代目以降は「與平」を襲名しており、当代18代目になります。

おまけの話ですが、戊辰戦争の際は白井家は疎開していたものと思われます。住まいは土佐の部隊が根城にしており、落書き(県立博物館に寄贈)や家の柱の随所に刀傷が残っており、私が4歳の時までその家で過ごしました。

今は昔の名残は全くありませんが、歴史を感じて頂けるよう何かしらと考えているところです。

18代目 白井與平

昭和53年12月6日の新聞の切り抜き(間違っている点が多いようです?)

昭和37年の新聞の切り抜き

明治時代に発行された全国商工人名簿

私が子供の頃生活していた土蔵の壁に書かれた、戊辰戦争時の土佐藩部隊の墨書き

大正時代に撮影した13代目白井與平と家族の写真

昭和30年代当時の店構え

大正~昭和の頃の店構え

昔の通い帳


真ん中の「松本善六」様は今の名倉山さんです。

明治時代の新聞広告


明治末期の若松市繁栄一覧表

元禄2年馬場町屋帳寫

植木屋の半纏を着て身しらず柿を収穫する之風景(大正~昭和初期ころ)

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